こんにちは^^
アルバイトを辞めたりと色々ありましたが、このころにはカウンセリング代は着実に貯まっていました。
一番の問題は、どこでカウンセリングを受けるかですよね。
そこが一番肝心なのですが、、一番肝心なところが抜け落ちるのが私…泣
インターネットを駆使して調べてみるも、ピンと来るものがなく、悶々とする中、はっと思い出したのが、幼い頃から何と無しに見ていた電車の中に貼られていたカウンセリングの広告でした。
今、思い返してみたら、刷り込み効果もあったのかもしれません。
私はこれだ!と思ってしまうと、メリット・デメリットも良く調べず、突き進んでしまうことが多いのですが、今回もやはり衝動を抑えられず、母の
「カウンセリングは高いし、もっとよく考えたら?」
と忠告も受けたのですが、もはや私の耳にはその声は届かず。
そこのカウンセリングは会員制で、しかもお支払はその都度ではなく一括。
それも結構な額を支払うので、今となっては、ん…?と思うところもあるのですが、とにかく当時の私は一刻も早く治療したいという一心で母を無理矢理説得し、そこに通うことにしたのです。
が…。。
カウンセリングに行く時、初日は母に付き添ってもらい、そちらへ向かいました。
私の想像していたカウンセリングというものは、とにかく話をきいてもらって、何に困っているのか?その原因をほりさげ、根本から解決していくものというイメージでした。
こちらのカウンセリングは、「心と身体は繋がっている」をテーマに掲げており、体操8割・カウンセリング2割くらいで構成されておりました。
よく調べもしない自分が悪いので、自業自得ですが、正直がっかりしてしまったのが初日の感想です。
カウンセリングも、話を聞いてもらって気分すっきり!となるのかと思いきや、うーん。。
体操の合間に瞑想など休息はとるのですが、運動という運動をやっていなかった自分には正直キツイものがありました。
まず、ここに来て良くなるんだ!という気持ちがある反面、体操は全体でやるので、
”みんなどういうことに悩んでいるのだろう、本当に来て良かったのだろうか、変に思われないだろうか。”
といった葛藤がありました。
私が期待を寄せていたカウンセリングは正味15分くらいで終わりました。
カウンセリングが終わった後はすっきりどころか、頭の中のひきだしをたくさんひっぱり出し、そこから中のものを手あたり次第にとりだすようなイメージで、頭の中がごちゃごちゃになったような感想を持ちました。
そのため、体操とカウンセリングが終わる頃には脳がとても疲労を感じているのが分かりました。
家に帰るとへとへとで必ず寝てしまい、不安感さえ覚えるようになって行きました。
いざ、勢い勇んでカウンセリングに通い出したはいいものの、回数を重ねるにつれて、特に際立った変化も表れないため、徐々に足が遠退いて行きました。
“でも!お金は払ったんだし、とりあえず全ての回数行ったほうがいいよ!”
と頭の中でいう自分と、
”カウンセリングってみんなこんな感じなのかな、もう劇的に変わるってことはないのかな…。”
という絶望感。
その2人の自分が戦っているという感じです。
体操と少しの時間のカウンセリングをくり返し、ゆっくりペースで通いながら、とりあえず一連のコースは完遂しました。
ここからはカウンセリングを受けた、あくまで個人的な感想です。
考え方や物事に対しての視野を広げることが必要なんだなということがカウンセリングを通しての学びであり、感想でした。
これはとてもプラスではあるものの、それが仮に100%中、何パーセントの満足かと問われれば、10%位で、残りの90%はあんなに高額な費用を支払って何やってるんだろう。。というのが率直な気持ちでした。
これから変わるにはどうしたらいいんだろう…、私の心はまたふりだしに戻ったような絶望感で一杯でした。
初めてのカウンセリングは腑に落ちない結果となってしまいましたが、それでも心のどこかでカウンセリングに対する期待の様なものは無くなっていませんでした。
一度、そのような結果となってしまったため、もう一度別のカウンセリングに通うために1から費用を貯めるのも、二の足を踏んでしまいましたが、もう1回だけ!という気持ちで、残りの貯金の中からやりくりできそうなカウンセリングに通うということに決めました。
次のカウンセリングは、心のメカニズムと言いますか、なかなか説明が難しいのですが、精神論のDVDを見て、心が疲れている時は積極的に体を動かすなどの精神を健康に保つコツのようなものを学びました。
その学び(1回1時間くらいのDVD)の後に、カウンセリングを受けるといった感じです。
カウンセリングは自分の今抱えている悩みをとりあえず全部思い付くままに話し、それをカウンセラーさんがメモし、かみ砕いてこの問題にはどうやって向き合っていくべきかという、考え方の練習をしていくといった感じでした。
自らの固定観念に縛られず、柔軟に物事を捉え、色んな方面から問題を可視化していこうというようなカウンセリング方法でした。
初めは勢い勇んで通うものの、こちらも以前と同じく目に見える様な変化が感じられないと思うと、やはり通うのがだんだんと億劫になって行きます。
カウンセリングは人によっては何年もかかるものですし、長い目でみなければいけないのは分かっていても、費用のこともあるので、どうしても焦りが出て来てしまい…。
カウンセラーさんは、いつも私から見ると楽しく仕事をされている印象を受けました。
こんなに暗い話をしているのに、なぜニコニコして聞いていられるのだろう?と私からしてみると不思議でなりませんでした。
当時は「引きこもり」としか言われていない時代で、そこから徐々にニートという言われ方が少しずつ浸透してきた頃でした。
もしかしたらこのまま行ったら自分はニートになるかもしれないと真剣にカウンセラーさんに伝えても、カウンセラーさんからは、
「ニートって何ですか?」
と言われてしまったことが心にひっかかり、カウンセラーさんはあてにならないという気持ちが芽生える様になっていきました。
そこからはもう消化試合の様な感じでカウンセリングに通っていた様に感じます。
もう後残り数回というところで、カウンセラーさんとの対話中に、
「りりさんは病気なんかじゃありませんよ、ただ毎日がつまらなく感じているからそう思うんです。人生は毎日ディズニーランドではないんです。薬を飲んでも変わりませんよ。」
と言われたのが今でも心に残っています。
その言葉は私の心を大きく揺さぶりました。
それを言われたのは当時の若い自分にとってはとてもショックな言葉でした。
本当に心にささるという表現がぴったりと言いますか…、私の悩みはそんな簡単じゃないのに!お金だって色々我慢して貯めて頑張ろうと思ってきたのに…。
と怒りと悲しみが同時に湧き上がってきました。
”もうカウンセラーさんなんか信じない!”
と思い、残り数回のカウンセリング料金を払ったにも関わらず結局行かず仕舞いに終わってしまいました。
ですが、この経験は自分の中で人生勉強になったと思い、不思議と後悔はしませんでした。
もう自分の中でやり切ったという想いでいっぱいで満足感すら感じていました。
ですが、費用を工面するべく、いっぱいいっぱいだった生活やキャンパスライフを自由に楽しめなかったことは大なり小なり悔やまれました。
当時はその気持ちでゆれ動き、満足したと思えば、この選択をした自分を憎み、バカだったと思ったり、色んな想いが頭の中をかけめぐり、想いを昇華させることが出来ず、辛い想いもしました。
この2年ムダだったのだろうかという想いに自分を納得させられる答えもみつからないまま、そろそろ就活を考えなくてはいけないという、崖っぷちに立たされたような絶望感や不安にかられる日々に悩まされるようになっていきました。
”このままではいけない。でもどうすればいい?”
まだ若く、心が不安定な私にはもう何にもすがれるものがない様な気がして、ただただ途方に暮れるしかありませんでした。
自分がぽつんと海の上に浮かぶ葉の様に思えて、やるせない気持ちでこわれてしまいそうでした。